WMO.club

No.122 シカ飼育日誌~かわいいベイビー、ハイハイ♪~

2014年04月発行

シカ飼育日誌
~かわいいベイビー、ハイハイ♪~

檀上 理沙(WMO)

3月下旬から急激に暖かくなり、春の訪れを感じますね。『春』といえば、多くの動物たちの出産シーズンです。この季節に動物園などへ赴けば、動物好きの方もそれほどでもない方もかわいいベイビーたちを眺めながら自然と顔をほころばせています。私も早くベイビーたちを眺めて、ニヤニヤしたいと思う今日この頃です。
ニホンジカ(Cervus nippon、以下シカ)では5月下旬から7月上旬に分娩を迎えます。今回は、私が飼育していたシカの分娩について、当時の飼育日誌とビデオ映像をもとにお話します。
<分娩の兆候>
 2011年2月、私は養鹿施設兼シカ公園から4頭(通称:萌、蛍、小町、立花)のメスジカを搬送し飼養を始めました。3ヶ月間かけて新しい環境とヒトに慣らし、ようやく馴致してきた5月頃に分娩ラッシュはやってきました。初めて分娩を迎えたのは、萌という個体です。萌は最もヒト(私)に馴致している個体で(写真1)、体格は小柄でしたが、当時群れの中で最も高順位の個体でした。その萌の変化に気づいたのは、分娩日の5月13日です。その日、私が餌を持ってパドックに入ると、萌は餌に全く見向きもせず、私を避けるように移動していきました。いつもなら真っ先に走り寄って、餌の入っているバケツに顔を突っ込んでくるような個体でしたので、私はすぐに様子がおかしいと感じました。私は餌を給餌箱に入れ、しばらく萌の行動観察を行いました。他個体が採食し始めて時間が経過しても、萌は一向に給餌箱に接近しようとせず、群れからも離れて立位姿勢のまま静止していました。後にこの行動が分娩の兆候であることを知ったのですが、当時の私は全く気付かなかったので『萌、食欲不振。糞便正常。体調不良?』と日誌に残し、その日の観察を終えました。次の日再びパドックを訪れると、萌は何事もなく私に接近してきて、いつものように採食を始めました。『体調戻ったな。』と安堵し、念のため糞便をチェックしようとパドック内を見回ると、何か小さい物体がパドックの隅で息を潜めていることに気づきました。『バンビ~ッ(写真2)!!』。その瞬間、初めて私は昨日の萌の不可解な行動反応の意味が理解できました。
 健康的に動物を飼養管理するためには分娩時期を予知することが求められます。家畜の場合、分娩する動物の行動反応、生殖器および乳房、尾部などの変化から分娩時期を推定しますが、徹底した餌管理や熟練の飼養管理者でなければ推定は難しいと言われています(三村,1997)。萌の後に分娩した3頭(蛍、小町、立花)も同様、分娩日に採食行動が認められず、群れから孤立する行動反応を示しました。また、蛍では分娩数日前から乳房の膨満、小町では分娩日の朝に外陰部の腫脹と粘液の漏出が確認されたことから、それぞれ分娩直前の兆候を指し示していると考えられました。

【 分娩直前の母ジカの兆候 】
 ①分娩1日前に食欲不振になる
 ②活動が不活発になる
 ③群れから離れる
 ④乳房の膨満が見られる
 ⑤外陰部の腫脹と粘液の漏出が見られる
 no122-1

no122-2

<陣痛>

分娩中のビデオ撮影に成功したのは、3頭目に分娩を迎えた小町でした。小町の社会的順位は、当時第3位でした。ヒトへの馴致は、私の手にのせた餌を警戒しながら食べる程度で、決して体に触れることはできない個体でした。
小町の分娩兆候に気づいたのは、5月26日の朝10時頃です。前述したように採食行動は認められず、パドック内を落ち着きなく歩き回る行動反応が見られ、外陰部から粘液が漏出していました。この時点で私は、数時間後に陣痛が起こるという確信は得ていませんでしたが、なんとなく分娩の予感がしたので午後に再びパドックを訪れました。
12時35分、小町の外陰部(子宮口)が開口し、胎児の前脚の蹄が数ミリ程露出していることを確認しました。小町は私の存在を気にはしていましたが、私に対して逃避や前脚を突くなどの敵対行動を示さなかったため、約5mまで接近し行動観察を行いました。12時38分(観察開始から3分後)、伏臥位姿勢の小町に、他個体(蛍)1頭がゆっくりと接近していきました。蛍は、小町の外陰部に顔を近づけ7秒間においを嗅ぐ行動反応(社会的探査行動)を示した後、すぐ群れのもとへ戻りました。それ以降、子ジカを出産するまで他個体が小町に接近することはありませんでした。
12時42分(観察開始から7分後)、小町が伏臥位姿勢のまま背中をアーチ状に伸ばし、子宮筋を収縮させるという陣痛姿勢を確認しました(陣痛初確認)。小町は疼痛に耐えているせいか、口から流涎が見られました。
12時43分(観察開始から8分後)、観察し始めてから2回目の陣痛が始まり、小町は立位姿勢になりました。以降、態勢を何度も変えながら、12時55分(観察開始から20分後)の出産に至るまでの間に合計7回の陣痛が起こりました(写真4、写真5)。1~6回の陣痛における平均持続時間は18秒で、7回目の陣痛は合計129秒間も継続しました。
12時43分(観察開始から8分後)に、小町は外陰部に顔を接近させ、鼻先まで漏出した胎児を舐める行動反応が初めて確認されました(写真6)。この行動は出産に至るまで合計13回起こり、平均持続時間は18秒でした。小町は陣痛→態勢を変える(立位姿勢あるいは伏臥位姿勢)→胎児を舐める→陣痛という行動を繰り返しました。
12時54分(観察開始から19分後)に、胎児は頭部全体が露出し自発呼吸が確認できました(写真7)。新生子の自発呼吸は、胎盤剥離や臍帯の閉塞などによる酸素分圧および血中pHの低下、炭酸ガス分圧、触覚、温度刺激などが引き金となり開始されるそうです(佐藤,2003)。頭部が完全に出てからはスムーズに進み、胎児が上半身まで露出すると小町は立ち上がり、一気に産み落としました(写真8)。
産後、小町は一息つくこともなく、胎水で濡れている新生子の体表を盛んに舐め始めました。この行動反応はリッキング(licking;舐子行動、groomingともいう)と呼ばれ、リッキングにより新生子の被毛は乾き、体温が保持されると同時に、新生子の排尿、排糞、呼吸、血液循環が促進されます(三村,1997)。そして、小町は新生子の体表に付着している羊膜や臍帯、地表に落ちた血液、分娩から32分後(13時27分)に起こった後産をすべて採食しました。この行動反応はプラセントファギイ(placentohpagy)と呼ばれ、捕食者に分娩場所を知らせないための行動です。プラセントファギイはhider speciesで見られる行動と言われていますが、ウシ科動物以外にブタ、イヌ、ネコ、サルでも見られます。さらに、母ジカはこのリッキングとプラセントファギイによって新生子のにおいを記憶し、自分の子を識別できるようになるといわれています。リッキングは産後から行動観察を終了する14時11分まで合計66回(合計52分間)確認され、平均持続時間は47秒でした。
実際に私が分娩に立ち会うことができたのは、昼間に分娩した小町1頭のみでした。他の3頭は午前中に子ジカを発見しましたが、体毛が完全に乾いていたことから夜間から早朝にかけて分娩したと考えられます。夜行性の野生ジカも夜間分娩が多いことが予想されており、同じウシ科動物であるウシやヒツジも多くが夜間に分娩します(三村,1997)。また、昼行性のニホンザル(Macaca fuscata)も通常、分娩は夜間に行われます(井上ら,2013)。『なぜ、家畜や昼行性の動物でさえ夜間分娩が多いのか?』私は疑問に思いました。
分娩の作用機序には、母ジカと胎児における内分泌系ホルモンのダイナミックな変動が影響しています。注目すべき変動は、副腎髄質から分泌されるアドレナリンの分泌低下と脳下垂体神経叢から分泌されるオキシトシン分泌増加です(佐藤ら,2011)。アドレナリンは活動時または興奮時に多く分泌され、このホルモンにはオキシトシンの分泌を抑制する働きがあります。しかし、オキシトシンは分娩時に子宮筋の周期的な収縮を強める働きがあり、オキシトシンの分泌なしに分娩は行われません。ヒトにおいても、初産などで恐怖心が高い女性はアドレナリンの分泌が増加し、恐怖心の低い女性と比較して分娩時間が長くなるそうです。そのため、分娩直前の妊婦や動物にはアドレナリンの分泌を低下させるため、静寂で安心できる環境が必須条件となります。このような理由から、飼育ジカは、パドックやその周辺にヒトの気配がなくなる夜間あるいは早朝に分娩を行ったと予想されます。たった1頭ではありますが、昼間に分娩を行った小町を間近で観察し、記録を残せたことは大変貴重な経験でした。

①分娩は夜間に多い
 ②他個体は分娩中の個体に接近しない?
 ③分娩時間は陣痛が起きてから数十分~半日(高槻,2006)
 ④産後、リッキングおよびプラセントファギイにより、母ジカは子ジカのにおいを記憶する

 no122-3

no122-4

no1212-5

no122-6

no122-7

no122-8

<分娩後の行動変化>

 13時6分(分娩から11分後)、産後の小町からリッキングされていた子ジカは立ち上がろうと身を動かし始めました。その後、何度か挑戦し13時21分(分娩から26分後)に子ジカは初めて起立しました。子ジカは起立直後から小町の乳房を探し始めますが、すぐに吸乳することができず、小町が伏臥位姿勢になった13時25分(分娩から30分後)に初めて初乳を飲みました。
 分娩後の母ジカの行動変化は、発声回数です。野生の母ジカは、授乳のために1日に数回、子ジカのもとへ戻ってきますが(高槻,2006)、子ジカの正確な居場所までは知らないと言われています(Clutton-Brock and Guinness,1975)。その際に使用するツールがContact callという鳴き声であり、子ジカは自身の母ジカの鳴き声のみに反応して、両者は接触することができます。したがって、分娩後の母ジカは分娩前と比較して頻繁に鳴きます。また、子ジカが危険を察知しDistress callという悲鳴をあげると、母ジカは子ジカのもとへ走り寄って、子ジカの身の安全を確認する行動も見受けられました。このように母子間のコミュニケーションにおいて、鳴き声は重要なツールであり、子ジカが出生してから平均日齢30日までは頻繁に確認されました(檀上,2012)。
さらに、母ジカによっては私が子ジカに接近すると、顔の血管を浮かせて怒り、前脚の片方で地面を繰り返したたく、地たたきという敵対行動を示しました。もともと臆病な動物であるシカが、ヒト(私)に対して敵対行動を示すことは、とても珍しいことです。実際1年間の飼養期間において、ヒト(私)に対して敵対行動を示したのは、分娩直後と発情期間のみでした。それほど、分娩直前直後はシカがデリケートになる時期であり、子ジカおよび母ジカが安心できる空間を確保するなどの飼養管理の工夫が必要であると感じました。
 余談ですが、子ジカの顔はどれも母ジカを連想する顔つきで、標識なくとも識別は容易でした。

①子ジカは生まれてから、数十分で起立する
 ②分娩直後、母ジカ子ジカともによく鳴く
 ③分娩後、母ジカは攻撃的になる
 ④子ジカの顔は母ジカの面影がある

<まとめ>
 以上のように飼育ジカにおける母子行動の観察は、野生ジカのそれと全く同じではないですが、フィールド調査をする上で参考となる知見が多くありました。完全に野生状態のシカの分娩にばったり立ち会うことはおそらく奇跡に近いと思いますが、もしも目にすることが出来たらこれ以上ない感動を味わうことができるでしょう。また、隠れ場所でじっと母ジカの帰りを待つ子ジカと出会える機会があるこの時期の調査を、私は楽しみで仕方がありません。
〈引用文献〉
Clutton-Brock T.H.,Guinness F.E.,1975.Behaviour of red deer(Cervus elaphus L.) at calving time.Behaviour.55;287-300.
檀上理沙,2012.聴覚および視覚刺激を用いたニホンジカ(Cervus nippon)の誘引.
信州大学大学院修士論文.
羽山伸一、三浦慎悟、梶光一、鈴木正嗣,2012.野生動物管理.-理論と技術-.文英堂出版.
http://www.bjog.org/details/news/2101819/Women_with_a_fear_of_childbirth_endure_a_longer_labour_finds_new_research.htmlWomen with a fear of childbirth endure a longer labour finds new research..
井上英治、中川尚史、南正人,2013.野生動物の行動観察法.実践日本の哺乳類.
東京大学出版会.
三村耕,1997.改訂版家畜行動学.養賢堂.
日本動物園水族館協会,1995.新飼育ハンドブック.動物園編.1繁殖、飼料、病気.
日本動物園水族館協会.
佐藤英明,2003.動物生殖学.朝倉書店.
佐藤衆介、近藤誠司、田中智夫、楠瀬良、森裕司、伊谷原一,2011.動物行動図説.家畜・伴侶動物.展示動物.
朝倉書店.
高槻成紀,2006.シカの生態誌.東京大学出版会.
高槻成紀、南正人,2010.野生動物への2つの視点.“虫の目”と“鳥の目”.
株式会社筑摩書房.
No.123 ニホンザル追い払… 一覧に戻る No.122
ページの先頭へ