No.126 代表交代にあたって
2015年04月発行
代表交代にあたって
(株)野生動物保護管理事務所
濱﨑 伸一郎
羽澄俊裕氏の代表取締役退任に伴い、新たにWMOの舵取り役を任されることになりました。前代表在任時と同様にご指導とご支援のほどお願いいたします。
羽澄さんは1983年に東英生さん(初代代表)とともにWMOを創立されて以来、Wildlife Managementのシステムを社会に根づかせることを目標として長年にわたって力を注がれるとともに、WMOをここまで牽引してこられました。今でこそ野生動物管理という言葉は普通に使われ、法律にも記載されるほど社会に定着していますが、WMO創立時には世間一般ではほとんど馴染みがなく、野生動物に対して管理するという言葉を使えば研究者からも非難を受けるような時代でした。そのような時代に野生動物管理を社名に取り入れ活動を開始した先見性と行動力に改めて敬意を表したいと思います。
私と羽澄さんとの出会いは1981年でした。WMO創立の2年前です。私が入学した東京農工大学農学部環境保護学科の自然保護各研究室では、研究室の助手であった丸山直樹先生を中心に環境省(当時環境庁)の「森林環境の変化と大型野生動物の生息動態に関する基礎的研究(1980年度~1984年度)」に取り組まれていました。我が国でも初めてといっていい大型哺乳類生態研究の大型プロジェクトです。入学して間もない5月に、そのプロジェクトに関連した日光でのシカ密度調査があると聞き、同期生数名とともに調査に参加したのですが、その時、調査のベースとしていた営林署の山小屋に半ば住み込んで現場調査の指揮をしていたのが羽澄さんでした。羽澄さんはすでに同研究室を卒業し、日本野生生物研究センター(現、一般財団法人自然環境研究センター)の非常勤職員の肩書きで、同プロジェクトの日光地域のツキノワグマの調査に取り組んでいました。羽澄さんは当時26才の若さでしたが、私からすると先輩のさらに上の先輩でしたので、話すのも恐れ多い存在だったように思います。私は5月のシカ調査をきっかけに、シカの餌資源量評価のためのササ坪刈り調査をはじめ、クマとシカのラジオテレメトリー調査などに参加し、羽澄さんをはじめとする諸先輩方から野生動物調査の指南を受け、この世界のすばらしさを教えてもらったことになります。WMOの初代代表である東さんと出会ったのも、この日光のフィールドでした。クマやシカの捕獲時の不動化作業も今思えば手探りの状態で、そんな折に麻酔の手ほどきにきていたのが東さんでした。その後、私は獣医師であった東さんからの影響も受けて、大学2年の時に獣医学科を再受験するための共通一次試験を受けていたまさにその日にWMOが創立されたことを後日知りました。羽澄さんと東さんは27才の若さで、野生動物保護管理のシステムを日本に定着させるという情熱をたぎらせWMOの礎を築かれたわけで、当時の社会的認識から考えると無謀と言われても仕方ない起業だったのではないでしょうか。今でこそ、様々なベンチャービジネスの起ち上げは珍しくありませんが、今日のそれと質的な違いを感じるのは私だけではないと思います。
WMOの創立時のメンバーは、羽澄さん、東さんのほか、両名の奥様(羽澄ゆり子さん、東玲子さん)を含む6名でした。大学在学中の私は、足尾のカモシカ調査、サル調査など年に何回か調査に参加させていただきましたが、その後、岡野美佐夫さんや宮本大右さんがWMOのメンバーに加わり、私が入社(入所)した1989年には、泉山茂之さんも加わって4つの研究室からなる研究室体制に移行しました。当時は日本がまだバブルに沸いている時代で、各地で様々な開発が行われていました。WMOは環境アセスメントの下請けをしながら、野生動物の生態調査を細々と続けている時代でしたが、私の入社する前の1987年に九州では絶滅したと考えられていたツキノワグマが捕獲され、1988年に環境庁が急遽実施した九州ツキノワグマ生息確認調査を担当したのが羽澄さんでした。私は残念ながら調査に参加することができませんでしたが、世間からも注目されていた調査であり、調査結果はテレビで全国放送されました。専門家として九州におけるクマの生息の可能性を淡々と語る羽澄さんを少し誇らしく思ったものです。
WMOはその後も少しずつメンバーを増やし、1991年には株式会社となり、初代代表取締役として羽澄さんが就任されました。羽澄さんはその数年前から神奈川県の丹沢でクマの生態調査を開始されており、ほぼ手弁当のこの調査にはメンバーのほとんどが参加していました。まだスズタケの繁茂する丹沢の山々の斜面を、羽澄さんとともに生体捕獲用のドラム缶檻を大汗をかきながら背負子で担ぎ上げていたことが懐かしく思い出されます。
1990年代は、シカやサルの被害問題やクマの保全が行政的課題として取り上げられはじめた時期で、各研究室はそれぞれが対象とする種の委託業務で動くことが多くなっていました。羽澄さんが率いる第1研究室は、兵庫県などのクマの捕獲・再捕獲法による密度推定調査を行っていましたし、私が所属する第3研究室では、同じく兵庫県のシカの調査に着手していました。西日本では、野生動物による被害問題が深刻になりつつあったこともあり、1998年には神戸市に関西分室を開設し、私を含む第3研究室のメンバーが異動しました。
その後、野生動物問題は全国的に拡大し、1999年には特定鳥獣保護管理計画制度創設を含む鳥獣保護法の改正が行われ、野生動物の計画的、科学的管理が都道府県に求められるようになりました。さらに、2007年には「鳥獣による農林水産業等に係る被害の防止のための特別措置に関する法律(鳥獣被害防止特措法)」が成立し、市町村にも被害防止計画に基づく被害管理施策の実施が求められるようになりました。WMOもこれらの変化に対応すべく体制の充実を図ってきましたが、職員数も業務の種類も量も年々増加する中、会社代表の羽澄さんは我々の想像を超える負担を抱えてこられたのではないかと思います。ただ、生まれながらに持たれた懐の深さなのか、そのような状況でもほとんど深刻な様子を我々職員に見せることはありませんでした。そしてそのことこそがWMOという組織がここまで続いてきた理由であったのではないかと思います。
WMOの創立からすでに32年、株式会社設立からも24年が経ちました。奇しくも、今年5月には改正鳥獣法が施行され、指定管理鳥獣捕獲等事業と認定鳥獣捕獲等事業者制度といったこれまでにない野生動物管理のシステムが動き始めることになります。これから10年間でシカ、イノシシを半減させること、被害を起こすサルの群れを半減させることなど、国家レベルの野生動物管理施策が実行されることとなり、我々に求められる知識や技術もこれまでより格段に幅の広いものになってくると思われます。
長きにわたって野生動物保護管理の分野で貢献されてきた羽澄さんから襷を受け、これから社会にどのように貢献していけば良いか、まだまだ模索している状況です。ただ、幸いにもWMOには羽澄さんが育ててきた豊富な人材がいますので、とりあえず当面の私の仕事は、彼らの能力を最大限に発揮させる環境作りだと考えております。
羽澄さん在任時と同様に今後もご支援の程よろしくお願いいたします。
No.126 | 一覧に戻る | No.125 日本哺乳類学会2… |