No.115 九州にツキノワグマは生息するか -JBNの調査に参加して-
2012年07月発行
九州にツキノワグマは生息するか
-JBNの調査に参加して-
中川 恒祐(WMO)
6/8~6/10にかけて、日本クマネットワーク(JBN)が九州の祖母・傾山山系においてツキノワグマの生息調査を実施した。本調査は研究者や一般の方、学生などを含むJBN会員と地元の猟友会員ら約40名によって実施され、私もJBN会員として参加した。九州のツキノワグマは絶滅したといわれているが、近年になっても目撃証言が絶えず、昨年10月にも登山者によるクマの目撃情報が寄せられていた。こうした経緯もあり、JBNとして九州におけるツキノワグマの生息状況の把握を目的とした広域痕跡調査を実施する運びとなった。調査範囲となった祖母・傾山山系は目撃情報が集中している地域であり、1988年にWMOがツキノワグマの緊急調査を実施した場所でもある。本稿では、九州のツキノワグマについての概要と今回の調査を、1988年の調査を参考にしつつまとめた。
JBNによる調査
現地調査は熊本県、大分県、宮崎県の県境に位置する祖母・傾山山系で、2日間にわたり実施された(図1)。調査は1チーム3~4人で構成され、初日11チーム、2日目9チームが事前に定められたルートや区画を踏査した。踏査では、足跡、食痕、糞、爪痕、クマ棚などのクマの痕跡を探索した。また、各ルートにハチミツを誘因餌とする赤外線センサーカメラ約40台を設置した。カメラは2~3か月間設置される予定である。九州で本格的なツキノワグマの調査が行われたのは、環境庁(当時)の委託によりWMOが実施した1988年以来となる。本調査には新聞やTV局など約10社が取材に訪れ、調査に同行取材する社もいるなど九州における関心の高さを感じさせた。
九州のツキノワグマの現状
環境省が作成したレッドリスト(平成19年)によれば、九州のツキノワグマは“絶滅のおそれのある地域個体群(LP)”に分類されている。ツキノワグマの生息する可能性がある県別についてみると、大分県では“野生絶滅(EW)” (レッドデータブックおおいた2011)、熊本県では“野生絶滅種(EW)”(レッドデータブックくまもと2009)、宮崎県では“絶滅(EX)”(宮崎県版レッドデータブック2010年度版)と分類され、これら3県で絶滅宣言が出されている。県よりも国の方がやや含みを残しているものの、全体としてほぼ絶滅種とみなされていると捉えてよい。こういった絶滅宣言の一方、クマの目撃や痕跡を発見したという情報は跡を絶たない。写真家の栗原氏によると、2000年~2010年に祖母山系の宮崎県側で得られた目撃情報を精査した結果、極めてクマ類である可能性が高い3件を含め計6件のべ8頭がクマ類である可能性が高い情報であり、クマ類と考えられる動物が野生状態で生息、繁殖していることを強く示唆しているとしている。これらの目撃証言の中には、車からの距離約5mで座っている子グマらしきものを見たといったものや、窓の外にいる親子とおぼしき2頭の動物が立ち上がり胸の白い模様が見えたといった情報があり、確かに現在もクマ類が生息している可能性を感じさせる。しかし、残念なことに目撃情報は主観的な情報であり、より客観性の高い情報が得られないことには生息確認とはならないだろう。個体が捕獲されれば最もよいが、複数の人が確認できる確実な痕跡や写真が欲しいところである。
過去の生息状況
確実な生息情報となりうる個体の捕獲は、最も新しいもので約25年前(1987年)までさかのぼることになる。この捕獲を受け、翌年WMOは祖母・傾山山系および九州中央山系でツキノワグマの緊急調査を実施している。本個体は祖母・傾山山系でイノシシ猟中のハンターによって射殺されたもので、当時の個体分析により野生下で生息していた4歳のオスであることが明らかになっている。しかし、最近のDNA分析の結果から、本個体は福井県から岐阜県に多く見られるハプロタイプを有していることが判明し、北陸~中部地域から人の手により移入された個体、もしくは移入されたメス個体の子孫であることが明らかになった。この結果によって、九州産のツキノワグマの可能性がある最後に捕獲された個体は、はるか1941年の記録にまでさかのぼる必要ができてしまった。なお、捕獲ではないが1957年には子グマの腐乱死体が発見されたという記録も残されている。このように捕獲記録はこの70年間途絶えているが、姿や足跡等の目撃証言はその後も多数寄せられている。例えば、1977年には熊本の大学の探検部が雪上でクマの足跡を発見している。1988年の調査でも、アサダとミズメの樹皮に付いた成獣のクマの爪痕を調査員が確認しており、爪痕が出来てから経過した時間を考えると前年に捕獲された4歳の個体とは異なる個体によってつけられたものと推測されている。これらのことから、少なくとも約20~30年前まではクマ類と思われる動物が九州に生息していたことはほぼ間違いないのではないだろうか。
それ以前
では、九州のツキノワグマはいつ頃まで普通に生息が確認されており、いつ頃から減り始めたのか、また生息が疑問視されるほどに減少してしまった原因はなんなのだろうか。昭和7年(1932年)発行の動物学雑誌(日本動物学会)において、九州帝国大学教授の大島廣は九州にクマは生息しないというのが学会での定説であると記している。一方で、その定説をラジオで話したところ、祖母・傾山山系ではまだ少数ではあるがクマが生息しているとの連絡を受けたとも同稿内で書いている。同様に、登山家の加藤数功がまとめた「祖母・大崩山系における熊の捕獲表」(1958)では、明治から昭和初期を中心に計50頭のクマが捕獲されたことが記録されている。これらのことから、昭和初期にはすでに九州全体でみるとツキノワグマはほとんど生息していない状況で、祖母・傾山山系などの一部の地域において知る人ぞ知る存在になっていたといえよう。また、これらの地域では明治、大正の頃はたまに捕獲される程度には生息していたことが分かる。また、江戸末期のツキノワグマの生息状況について、参考になるのがクマ塚と呼ばれる風習である。これらの地域では「イノシシ千頭、クマ1頭」と言われクマを1頭捕るたびにクマ塚と呼ばれる慰霊碑を建てたという。また、クマの祟りについての言い伝えも残っている。クマ塚は、1800年代中頃から多く建立されるようになったという。クマ塚や祟り伝承は、クマの生息数が減少し貴重な動物となった背景の中、捕獲を制限しクマを守らなければいけないという心理が形や戒めとして現れたものなのかもしれない。おそらく明治以前、江戸時代末期にはすでにクマの生息数が減少していたのだろう。ちなみに、1855年に記された「肥後国五ケ荘図志」では、冬眠穴で捕獲した子グマに母乳を与える女性の図という衝撃的な図(図2)と、体は小さいが怒ると手のつけようがない、さすが野生の動物というなんとなくズレた文章まで記されているが、ひょっとすると救護的な意味合いがあったのかもしれない。
これより前の江戸時代中期やそれ以前のクマの生息状況については、文献が少なく伺い知ることができない。1988年実施の報告書では、祖母・傾山山系の主要な谷間では江戸時代から鉱山開発が盛んで、千人もの人が谷の中にひしめいていたと記述がある。山中で生活する彼らのタンパク源としてツキノワグマが利用された可能性もあるし、坑木に使用するための林木の伐採や、煙害や鉱毒水による自然環境への影響などの形でツキノワグマの生息地が狭められていった可能性も考えることはできる。また同報告書によると、宮崎県側の祝子川源流部や椎葉方面、熊本県側の五木や五家荘などの九州各地の谷では、当時焼畑を中心に生活が営まれていた。農閑期の彼らの狩猟はレクリエーション的側面が強かったと考えられ、逆に獲物を絶やさないという文化が育たずクマの生息数の減少を招いたのではと考察している。狩猟に関しては明治以降だが前述した加藤の記録にも残っている。また、江戸時代に熊胆が取引されていたとの記録もあることから、ツキノワグマが狩猟対象となっていたことは間違いないだろう。しかしいずれにせよ、九州のツキノワグマが減少した原因については、乱獲なのか生息地の減少なのか、またはまったく関係ない要因があるのか推測の域を出ない。しかし、戦後の拡大造林に代表されるような近年の環境改変と無関係であることは間違いないようだ。
生息環境としてみた現在の祖母・傾山山系
仮にツキノワグマがまだ生息しているとした場合、祖母・傾山山系はツキノワグマにとってどのような環境なのか、今回の調査結果から検討してみた。私が直接踏査した2ルートの結果および他ルートの報告によると、標高900mくらいまではスギやヒノキの人工林と常緑広葉樹や落葉広葉樹がモザイク状に分布しており、それよりも高い標高帯では落葉広葉樹林が広がっていた。大分、宮崎、熊本県は人工林率が50~60%と全国でも高く、林業県として有名である。標高900m以下ではこういった人工林が主体であり、この中に常緑広葉樹や落葉広葉樹が分布していてもツキノワグマにとって餌資源が豊富とはいえないだろう。一方、高標高帯の落葉樹林では、樹齢100年を超えるようなブナ、ミズナラ、クリ、ミズキなどの大径木が生育し、特に秋季において良好な餌環境となりうると感じられた(図3)。しかし、落葉広葉樹林の調査をしていて気になったのが、沢沿いを含めて下層植生がほとんど存在しないことだった。過去の状況が分からないため元々の下層植生の状況は不明だが、この原因としてシカの影響がまず思い浮かぶ。というのも、1988年実施の報告書では2~3m近いササが密生していたという記述があるのに対し、本調査では稈だけとなったササ(図4)やわずかに残った葉にシカの食痕が残っている状況や、ヒメシャラが軒並み剥皮されている状況などが目立ったからである(図5)。九州ではカモシカの生息数の減少がシカの影響であるとの報道があるが、もしツキノワグマが生息しているとすれば、春から夏にかけての餌となる草本類の消失はツキノワグマになんらかの影響を与えているかもしれない。シカによる被食によって生じる自然環境への影響がどのように他種と関係するのかは未解明の部分が多いため、本州のツキノワグマをモデルに研究が進むことを期待したい。
生息の可能性
個体群が一定の年数(世代)に渡り、絶滅せずに存続するのに必要な個体数を「最少存続可能個体数(MVP)」と呼ぶ。例えば、ハイイログマについて行ったシミュレーションでは、95%の確率で100年間個体群が存続するためのMVPは50頭、約40%の確率では20頭という結果がある。また、ビッグホーンについて様々なサイズの個体群の経過を実際に追跡した研究では、50頭未満の個体群はすべて50年以内に絶滅している。MVPは種や個体群、環境要因などによって異なる上に、様々な絶滅リスクを考慮に入れた上で算出されるべきものだが、上記の例を乱暴ではあるが九州のツキノワグマに当てはめると、個体群が100年間存続するには50~100頭が必要となる。前述したように明治から昭和初期にかけて記録にあるだけで50頭近くのクマが捕獲されていることから、約100年前は50頭以上の個体数が生息していたと推定できるだろう。よって、数字上は現在もツキノワグマが生息していても不思議ではない。
私の中では今回の調査は、幻の動物を探すロマンのようなものに魅かれ参加した側面がある。もし、生息が確認されれば九州のツキノワグマは絶滅危惧種(個体群)という切迫した現実となり、そういった情緒的な部分は吹き飛んでしまうかもしれない。それでも、数十万年前から九州の地で歴史を重ねてきたツキノワグマ、その生息を望む気持ちの方がはるかに大きい。残念ながら今回の調査では明確なツキノワグマ生息の証拠は発見できなかった。しかし、設置したセンサーカメラの結果が明らかになるまで数か月を要する。それまではJBNからの発表を期待して待ちたいと思う。
<参考文献>
原田種純. 1979. 秘境五家荘巡見記. 歴史図書社.
加藤数巧. 1958. 祖母・大崩山群に於ける熊の過去帳とかもしか. 祖母・大崩山群. しんつくし山岳会, 94-108.
熊本県. 2009. レッドデータブックくまもと2009. http://www.pref.kumamoto.jp/soshiki/44/rdb2009.html
栗原智昭. 2003. 九州におけるクマの激減とクマのタタリ. Bears Japan, 4(1):2-6.
栗原智昭. 2010. 九州における2000年以降のクマ類の目撃事例. 哺乳類学会, 50(2): 187-193.
宮崎県. 2011. 改訂・宮崎県版レッドデータブッ
ック 2011年度版.
大西尚樹・安河内彦輝. 2010. 九州で最後に捕獲されたツキノワグマの起源. 哺乳類科学, 50(2): 177-180.
大島廣. 1932. 九州に熊すむか. 動物学雑誌, 44: 113-114.
大分県. 2011. レッドデータブックおおいた2011. http://www.pref.oita.jp/soshiki/13000/rdbindex.html
鷲谷いずみ・矢原徹一編. 1996. 保全生態学入門 遺伝子から景観まで. 文一総合出版.
㈱野生動物保護管理事務所. 1989. 昭和63年度九州地方のツキノワグマ緊急調査報告書.
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