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No.108 イノシシとの戦い

2010年10月発行
イノシシとの戦い
 
山元 得江(WMO)

ニホンジカの調査を行うために、香川県の小豆島を訪れたことがあった。小豆島は香川県と岡山県の間の瀬戸内海に浮かぶ島で、面積は約153km2、海岸の延長は約126kmの島である。
調査では、山中を歩きながら糞粒調査や植生調査を行っていくのだが、尾根を下っていくと、直径40~70cmほどの大きさの石が高さ1~1.5mほども積み上げられている場所に行き着いた(写真1)。写真の左側に緑の棒の上下に黄色の印が付いていて、その間がちょうど1mなので、石組みの高さが分かると思う。そのシシ垣は、できてからどれくらいの時間が経っているのだろうか、崩れ落ちている部分が多数見られた。シシ垣を越えなければ次の調査地にたどり着くことができないのだが、場所を選ばないと乗り越えられない。崩れかけているとは言え、それほど頑丈にできているものだった。一つ目のシシ垣を突破しても次のシシ垣が現れ、数百mにもわたって二重に築きあげられていた。
 
 小豆島の別の地域では、土で作られたシシ垣が残っている(写真2)。これは、二面の長崎地区に残るもので、土で作られている珍しいシシ垣である。写真3には、このシシ垣を拡大したもので、細かな石が混ざっている土を積み重ねて作られたことが分かる。延長は200m、最高部1.6m、幅は60cmあり、町指定の有形民俗文化財となっている(写真4)。
 
 これらのシシ垣は、小豆島の島民がイノシシ被害に悩まされていたということを物語っている。実際に、小豆島でも古くからイノシシの他にもシカ、サルなどの野生動物による農作物の被害が深刻だったようで、江戸時代中期には島内のいたるところにシシ垣をつくり、寛政2年(1790年)、島全域に120キロメートルに及ぶシシ垣を完成させたそうだ。


写真1 石を用いたシシ垣


写真2 土を用いたシシ垣


写真3 土を用いたシシ垣を拡大


写真4 シシ垣の看板

 
 イノシシによる被害は小豆島に限ったことではなく、先人とイノシシの戦いの跡が西日本各地に点在している。それは、イノシシと人とが古来から深い関係を持っていたためである。狩猟・採集の生活をしていた縄文時代には、イノシシは重要な狩猟対象であり、かつ、ドングリなどの採集において競合する関係であった。農耕が発展し、耕作地が山地までおよぶようになる江戸時代には、サツマイモなどイノシシが好むような農作物を栽培し、イノシシによる被害が拡大した。そのため農民は多大な労力を投じて様々な対策を行い、農作物をイノシシから守っていたと考えられている。以下には、イノシシの被害を低減させるために行っていた対策を挙げる。
 
1)殲滅
 絶滅させることである。長崎県の対馬では食糧不足のため、木柵を設置し毎晩見回りを行っていたが、その労力が甚大であるため1700年からの9年間で約8万頭のイノシシを捕ったという記録がある。
 
2)捕獲
 農耕地に侵入するイノシシを駆除することである。イノシシの捕獲には、ヤリ・弓や落とし穴が使われ、鉄砲伝来以降は火縄銃を用いるようになった。捕獲したイノシシは、肉を「山鯨」「ぼたん」といった呼ばれ方で食された他、肝を薬用にしたり、毛・皮・牙・骨なども利用した。
 
3)防除
・シシ追い
 労働力を費やし限られた資材を用いて、農耕地にイノシシが入らないように努めた最も初歩的な方法である。収穫期を迎えた農耕地では、農民が大声をあげたり、音を立てたりして夜間にイノシシが入らないように見守っていた。また、布に油をしみこませたものや髪の毛を集めたものに火をつけたり、肉や魚を腐らせたりした異臭のするものでイノシシを寄せ付けないようにしていた。
・シシ垣
 シシ垣には、木垣、石塁、土塁、トタン柵・電気柵などがある。木で作られたシシ垣は、最も容易に材料を手に入れることができるものの、2~3年で補修を繰り返さなければならず、農民の負担は大きかった。石で作られたシシ垣は、一度築けば補修は少なく済み、防御にも効果的である。シシ垣の農地側と外側には所々に落とし穴を作り、シシ垣に沿って進んだイノシシを捕獲した。落とし穴は深さ2mほどほり、底にはとがった竹の杭を立てて落とし穴に落ちたイノシシを刺すようにしたものや、木を格子に組み落ちたイノシシを動けなくするものもあった。地面を掘り、土を積んだシシ垣は、猪土手とも言われる。
 
・威鉄砲
 火縄銃に玉を込めずに撃つ威鉄砲で、農耕地に近づくイノシシを追い払った。シシ垣がない場所では勿論のこと、シシ垣がある場所でも威鉄砲を用い、防除を高めた。
 
4)守り札
 イノシシ、シカを捕食するオオカミを益獣として祀っていた。農民はオオカミが祀られた神社で「守り札」を頂いて、田畑の周りに棒に貼り付けて立てておくとイノシシが寄り付かなくなったという。
 
5)有芒種
 イノシシが嫌う種を選択して作付けすることもあった。イネ・ヒエの様な穀類には芒の長い品種があり、イノシシが食べる時には長い芒が邪魔になるため、嫌うようである。
 
6)住み分けの思想
 農民はイノシシを殺すことを目的としておらず、イノシシの農耕地侵入を防げればそれでよい、という思想があった。
 
 
食料が豊富でない江戸時代に、イノシシの被害を受けることは死活問題に直結するため、上記の様に大変な労力がかかること(中には迷信めいたものも含まれているが)でも行っていたのだろう。冒頭に述べた小豆島のシシ垣についても、江戸時代という重機のない時代に大きな石を採取・運搬し、積み上げていく作業には、多くの人手と時間が必要であった。
近代になると、田畑をイノシシの被害から守るために、波状のトタン板や電線で農耕地を囲う対策が主流となっている。また、シシ垣のように森林と集落を隔て、イノシシが集落内に入らないようにする柵の設置も進んでいる。これらの対策にも多くの費用が必要となるが、先代の人が行って来た対策ほど手間をかけることなく、農耕地を獣害から守ることが可能となった。
トタン板や電柵で対策を行っていても、獣は必死で進入を試みるため、時には対策を突破されることもある。電気柵は設置したら終わりではなく、草刈りや電圧の確認などを定期的に行わなければならない。様々な調査で、農家の方の話を聞く機会があるが、定期的な点検をきちんと行っていないために獣が農地に入られていると考えられることをよく耳にする。草などはすぐに伸びるので、度々草刈りをするのは面倒かもしれない。しかし、昔の人は多くの時間と労力をかけて防除に取り組んできたことを思い出すと、現代の防除に要する手間は大したことではないと思えるのではないだろうか。電柵を張り、簡単な定期点検を行っていれば、大きな石を山から切り出して運び、1.5mほどの高さに積み上げることなく、獣の被害から農地を守ることができるのだ。
小豆島でのイノシシとの戦いは、一度終わりを迎えている。疫病が流行したことにより、島内のイノシシは明治8年頃に一度絶滅したのだ。野生動物にはこの様に弱い一面がある。一方で、数年前から瀬戸内海を泳ぎ小豆島に渡ってきているイノシシがいるという話を耳にしたこともあり、たくましさも感じる。イノシシの様々な側面を知った上で、被害対策を行うと、単なる害獣ではない新たな一面が見えるかもしれない。
 
 
<参考文献>
高橋春成「イノシシと人間――共に生きる」  (古今書院)
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