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No.81 槍ヶ岳の25年

2004年01月発行
槍ヶ岳の25年
 泉山茂之(WMO)

 昨年5月12 日、NHKの「地球!ふしぎ大自然」で『めざすは標高3000メートル-北アルプス槍ヶ岳に登るサル-』が放映されました。読者の中にも、ご覧になった方もいることでしょう。取材には、ほぼ一年かかりました。人間につきまとわれて、サルたちにとっては、さぞ迷惑なことだったでしょう。私が「槍ヶ岳の群れ」と長い時間を過ごしたのは、10年ぶりのことでした。10年の歳月は、サルの群れの世代が変わっていることを意味してもいます。かつての個体は、今は生きていないということなのです。1989年にテレメーターを装着したメス個体の確認は、1997年が最後でした。1989年に10才前後だった彼女は、20才になる前に死んだようです。10年の歳月が、サルたちの動きや、その「仕事」にどんな変化を与えているのか、私にはそんな興味がありました。

私が槍ヶ岳にはじめて行ったのは、大学2年か3年の1980 年と記憶しています。早いもので、もう25年になります。この時は、ただこのあたりを、重荷にあえいで通りすぎただけで、ああ槍ヶ岳に登ったのだ、という思いがあるだけでした。この時の想いが、心の底に残っていたのかどうかはわかりませんが、こんなに槍ヶ岳に深く関わるようになるとは、ほんとうに意外なことです。この後、私は200回以上(数えていないので)は、槍ヶ岳に通うようになりました。通うと先は、殺生小屋や槍の肩までです。槍の穂先(山頂)までは、確か4回か5回、小屋の友人たちと登ったのだったと思います。槍ヶ岳からの眺望は、当たり前かも知れませんが、素晴らしく心がいやされたものです。登った回数は少なくとも苦楽を費やしたということでは、私にとっては生涯忘れられない場所です。25年の歳月は、台風の突風により鬱そうとしていたアオモリトドマツやシラベの森をなぎ倒したり、大水で川が流れを変え道を壊したりはしましたが、槍ヶ岳の景色にはかわりがありません。雪は融け、春が来ると、同じ場所の草付きにカモシカもクマも草をたべにやってきます。

「槍ヶ岳の群れ」の越冬地は、標高1400mの高瀬川源流です。取材は、早春から始まりました。ハイビジョンのカメラや器材ははんぱな量ではなく、バイトの学生さんやスタッフは総勢5名にもなりました。私がちょこまか動き回るのとは違います。

 そして、前年春にテレメーターを装着してあったオトナメス個体は、12 月には元気な姿を確認していたのですが、冬越しできずに死んでいました。数メートルの残雪の下から、むなしく電波だけが飛んでいました。でも、サルたちはすぐに見つかりました。サルたちは、いつもの場所にいたのですが、なかなか近付くことができません。私一人なら、サルたちもいやな顔をするだけで見逃してくれます。でも、スタッフがずかずか近付くとびっくりして逃げ出してしまいます。大のおじさんが、4人も5人も近付くと、いやな顔だけではすまないのです。このように春の取材は、順調ではありませんでしたが、少しづつ進んでゆきました。その理由は、望遠レンズなどの最新鋭の機器があったからです。重荷であると言うことを外すなら、取材チームのわがままにもかかわらず、興味深い映像は取れていました。

しかし、テレメーターを付けていたサルが冬越しできずに死んだことで、私には重たい課題が突きつけられることになりました。サルたちが槍ヶ岳への山登りを始める前に、あらたな個体を捉え、テレメーターを装着しなくてはならない、ということでした。テレメーターがなくては、槍ヶ岳のサルの取材など、雲をもつかむようなものです。サルたちがどこにいるかなど、さっぱりわかりません。捕獲作業は、サルたちが高瀬渓谷にいるうちに、どうしても成功させなくてはなりません。結果は、サルたちの登山開始直前に、私の老体ががぼろぼろよれよれになることと引き替えに、ようやくオトナメス個体とワカオス個体それぞれ1頭ずつを捕獲し、テレメーターを装着しました。

 今回の番組の取材のテーマは、「槍ヶ岳のサル」ですから、「槍ヶ岳」と「サル」が一緒に映っているカットがどうしても必要でした。プロダクションの監督もカメラマンも、この映像が撮れるかどうかが、この番組の成否がかかっていることを心得ていました。「このカットは必要なんだけど、撮れるかな」、と監督、「サルしだいですね」、と私。こんなやりとりも、やがて、「このカットは、どうしても必要なんだけど、撮れますよね」、と監督、「サルしだいですね」、とはなかなか言えなくなり、答えの声も小さくなる私。私はこの後、「サルしだいですね」から、「電話しておきます」とうように答えを変えました。

夏の取材は、登山者がぐっと減る9月に入ってすぐに実施しました。取材チームは槍ヶ岳直下のヒュッテ大槍とヒュッテ西岳の2箇所に分かれて入りました。2日目、サルたちは槍ヶ岳と西岳の間の東鎌尾根周辺にいましたが、なかなか良い撮影ポイントには行ってくれません。取材チームを煙に巻くように、サルたちは、東鎌尾根の北側の高瀬川から、南側の槍沢に移動しました。

「サルは大槍の方に来ますかね」、と監督。「サル次第ですが、まだ10 日以上も日程がありますし・・・」、そして「電話してありますから」、と小声で答える私。監督は無言。10年前のサルたち動きでは、ここからサルたちは槍沢を下って時計とは逆方向に西岳を巻き込むように移動するか、槍沢を登ってやがてカールの上まで出てくるかのどちらかの動きをする、と私は取材チームに伝えました。10年前の、そんな昔のことが通用するかどうかはわかりませんが、ほかには何のあてもありません。

好天が続いていたのは幸いでした。翌日、電波の入力状況から、サルたちは槍沢のカールの下にいることがわかっていたので、大槍チームはサルへの接近を試みました。ヒュッテ大槍から標高500m下って、カールの上からサルたちを探しました。電波の入力は強く振り切れ状態、しかし双眼鏡で探してもサルたちはお花畑の丈の高い草の中にいるらしくなかなか見つかりません。長い時間が過ぎ、あきらめようとした時、サルたちは移動をはじめたのか標高300mほど下方のゴーロの石の原に出てきました。遠い、米粒のようなサルたちの姿が、はじめて撮影されました。やがてサルたちは移動をはじめ、私たちの方に向かって、カールの斜面を登りはじめました。待つこと1時間、サルたちが私たちの目前に現れました。撮影はうまくゆきました。夕刻が近付き、私たちはヒュッテ大槍に向けて登りました。サルたちは、槍沢右岸の大喰岳の岩場に泊まりました。

 夕食の時、「サルは大槍の方に来ますかね」、と同じ質問をする監督。そして「電話してありますから」、と小声で答える私。「今日はサルは撮れたけど、槍と一緒に撮れなかったからなあ・・・」、と監督。そして、「電話してありますから」、と小声で答える
私。サルたちは、槍沢を登っているのだから、まっすぐ登って飛騨側に越えるか、槍沢の源頭を回り込んでヒュッテ大槍の下か上を越えるはず、と私は思いました。槍の穂先とサルが一緒のカットを撮るなら、ヒュッテ大槍で待つしかありません。

 そして翌日、私たちは大槍でサルたちが来るのを待ちました。サルたちは、順調に槍沢を登ってきました。崖錘に草がまばらに生えているだけなので、米粒のようにしか見えないサルたちのいざこざや、さわぎの声も手に取るようにわかります。カメラマンは超望遠レンズで撮影を続けました。しかし、サルたちの姿はやがて見えなくなりました。そして、カメラマンが不安そうに、「サル、いなくなっちゃったんだけど」と言いました。そしてその時、偶然にも私たちの目前20m のところに若いオスがひょっこり現れました。「あっ、サルが来た」と私。サルたちは、槍沢の源頭を回り込んでヒュッテ大槍までやって来たのでした。サルたちはつぎつぎと現れ、ハイマツの球果をばりばり食べ始めました。「槍ヶ岳」と「サル」が一緒に映っているカットもようやく撮れました。

サルたちは、標高2900mの東鎌尾根をつぎつぎと越え、この日は尾根下の岩場に泊まりました。後日、印象的なカットだったね、と数人の方から言われた「哲学者のサル」の映像はこの時のものです。しかし、かれは泊まり場を見渡して、自分がどこに行こうか悩んでいただけのようです。実は、怖いおばさんたちの顔色を伺っていたなどということを、私はかれの名誉のために今まで言わずにいました。

「槍ヶ岳」と「サル」が一緒に映っているカットが撮れたことで、私の肩の荷もおりました。これで、この番組も、番組として成立します。そして翌日、クマの錯誤捕獲があり、私は山を下りました。この後、取材チームが留まっていた10日間、サルとの大接近はなかったようです。私としては、「電話した」甲斐がありました。

ヒュッテ大槍の上の東鎌尾根でのカウントでは、38 頭を数えました。私は、ちょっと驚きました。じつは、「槍ヶ岳の群れ」の個体数は、10年前も37-40頭でした。そして、世代が変わっていても、遊動ルートや、採食物には何もかわりがありませんでした。山麓のサルたちの現状を考えると、同じサルでありながら、かれらの置かれた状況はあまりに違います。環境が落ち着いているならば、サルたちがどんどん増えたり、行動が変わったりもすることはないのだ、私はそんなふうに感じられました。
     

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