No.146 樹皮剥ぎはシカの「食文化」になっている
樹皮剥ぎはシカの「食文化」になっている
姜 兆文(WMO)
「文化」と言えば人によってはある有名人の言葉が思い出されるかもしれないが、ここでは野生動物であるシカの「食文化」として紹介したい。1980年代以降、日本各地でニホンジカ(Cervus nippon、以下、シカという)が爆発的に増加し、農林業被害や生態系に対する悪影響が深刻となっている。
シカの個体数増加に伴う過度の採食圧により、ササの退化、下層植生(草本と低木層)の消失(裸地化)、土壌や落葉の流出が起こり、自然植生への影響が問題となっている(McCullough et. al. 2009)。90年代初めから日本各地でシカによる樹皮の採食(以下、樹皮剥ぎ)が発生し、2000年代になり、ますます深刻な状態になっている。シカは生きるために樹皮を食物として採食するだけだが、人間側からすれば植栽された木が食べられてしまうと林業被害、自然の木であれば環境被害とみなす。人間の気持ちを考えるとシカとしては何を食べたら良いのかをかなり迷うかもしれない。シカの気持ちはさておき、シカがどのように樹皮を採食するのかを紹介し、樹皮剥ぎを行うようになった経緯と理由について考えてみよう。
1. シカが樹皮剥ぎを行うようになった背景
日本では、終戦から高度経済成長期を経て、1970年代頃から社会全体に自然保護の意識が高まり、シカを含めた自然保護運動も盛んになった。また、シカには天敵もいないため、個体数が予想できないスピードで回復してきた。温暖化による降雪量の減少、子ジカの自然死亡率の低下により、さらに80年代後半からシカの個体数は爆発的に増加した。
シカは草食反芻(一度飲み込んだ植物を胃から口の中に戻し、再び噛んで細かくしてからまた飲み込むという過程を繰り返すこと)動物であり、生きるために植物を採食し続けることが必須であり、何を口にするのかは様々な要素により決まる。シカが採食する植物の種類は多く、食性の幅が広い(高槻2006)。イネ科の植物も採食すれば、広葉草本、木の枝葉も食べる。食物資源が乏しい地域や時期では、落葉・太い枝・樹皮などの栄養価が低いと思われる食物の利用割合も高くなる。日本は植林地が約7割占める森林環境であり、植林から約30年経った常緑針葉樹の植林地では樹木の生長に伴い樹冠部が閉鎖し、光が届かないために地表の植物が生長できなくなる。このような植林地が中心となった山に生息するシカの食物環境は、個体数の増加に伴いどんどん悪化する。シカは腹が減ると普段口にしない物も試して、新しい食糧を開拓し始めるようになる。最終的には堅く、表面が粗く、栄養価も低いと思われる樹皮を採食し始めたと考えられる。
2. どの木の樹皮を剥ぐのか
地域ごとの植生、シカの分布と個体数増加のプロセスは異なる。また、地域によって植栽された樹種は異なり、被害を受ける樹種も異なる。日本の主な植林樹種であるヒノキ(Chamaecyparis obtusa)、スギ(Cryptomeria japonica)、カラマツ(Larix kaempferi)(写真1)、ウラジロモミ(Abies homolepis)、シラビソ(Abies veitchii)(写真2)などは頻繁に樹皮剥ぎされている。また、樹皮剥ぎは植林木に止まらず、多数の天然樹種も樹皮剥ぎを受けるようになっている。全国的によく樹皮剥ぎされた天然樹木といえば、リョウブ(Clethra barbinervis)(写真2)であることは間違いないと思う。
写真1 ヒノキ(左)、カラマツ(中)スギ(右)の樹皮剥ぎ
写真2 ウラジロモミ(左)、シラビソ(中)、リョウブ(右)の樹皮剥ぎ
シカの食物環境の悪化に伴い、樹幹の表面がとても堅く、粗く、樹皮も薄く、食べられる部分が少ないと思われるヤマザクラ(Cerasus jamasakura)の樹皮も採食するようになったことには驚いた(写真3)。また、シカは匂う植物を採食することを避ける傾向があるが、最近では強い匂いをもつサンショウ(Zanthoxylum piperitum)の樹皮剥ぎまでするようになったことが見受けられるようになった(写真3)。これからシカの食糧開拓は一層進み、樹皮剥ぎの樹種を広げることが予想される。
写真3 ヤマザクラ(左)、サンショウ(右)の樹皮剥ぎ
3. シカはどのように樹皮剥ぎするか
他の反芻動物と同じく、シカの上顎には切歯がなく、下顎のみ切歯がついている(写真4)。植物を採食した際、上顎と下顎の歯で植物を挟んで植物を切断して口に運ぶ。
写真4 シカの上顎(左)と下顎の切歯(右)
樹皮を採食する際、下顎の切歯を用いて樹皮に切り込みを入れることが必要になる。そのため太い木の硬い樹皮を採食する時、木の幹の表面から切り込みを入れることは困難であると考えられる。上記のシカの上顎と下顎歯の生物的な構造と樹皮剥ぎの特徴を考慮すると、主に下記の3つの方法で樹皮剥ぎをすると考えられる。
- 直接齧って樹皮剥ぎ:下顎の切歯で切り込みを入れ、少しずつ齧って採食する。主に直径約10センチ以下の細い木、或いは樹皮が比較的柔らかく、切歯で切り込みを入れやすい木が対象となる(写真2のシラビソ、リョウブ、写真3のサンショウの樹皮剥ぎ)。シカは樹皮剥ぎの際に形成層部分を下顎の切歯で何度も齧りとるため、幹には切れ味の悪い彫刻刀で削ったようなシカの歯型が残る。
- 根張りから樹皮剥ぎ:下顎の切歯が切り込みを入れやすい細い根張りから食べ始め、徐々に剥ぎ面積を広げる(写真5左)。また、樹皮の物理的に縦に剥がれやすい特徴を利用し、剥がれた樹皮の一部を引っ張って樹皮と木の木質部から切り離し、樹皮の外側部分を残し、食べられる部分を採食する(写真1のヒノキとスギの樹皮剥ぎ)。
- 傷を活用した樹皮剥ぎ:オスジカが発情期に角を磨くために太い木に角の先端で樹皮をえぐる(角研ぎ、写真5の右)。角研ぎで樹木の樹皮が削られてしまい、その傷を利用して、太い木の樹皮剥ぎをする(写真1のカラマツ、写真2のウラジロモミ)。そのため、一旦樹皮剥ぎされると剥ぎ跡から切り込みを入れやすくなり、毎年繰り返し樹皮剥ぎされる。シカの角研ぎ以外で樹皮に傷ができた場合も樹皮剥ぎの起因になると考えられる。
写真5 シラビソ根の樹皮剥ぎ(左)とウラジロモミの角研ぎ跡(右)
4. 樹皮剥ぎの季節性は
シカによる樹皮剥ぎの季節はシカの個体数の増加とともに変化する。生息環境の収容力(特定環境において、継続的に生息できるシカの最大個体数)に対して相対的に中密度になると、シカの植物に対する採食圧が徐々に高まる。シカの届く高さの範囲までの植物が採食され、灌木を含めた下層植物がほとんどなくなる。特に植物枯死と積雪によって食物の量が少ない冬期に樹皮剥ぎが始まり、食物環境とシカの体況とともに最も悪い冬期末にピークになる(Jiang et. al. 2005)。
シカ個体数が継続的に増加し、生息環境に対して相対的に高密度になり、食物環境がさらに悪化すると、相対的に食物が豊富な夏期でも樹皮剥ぎが起こるようになる。その結果、一年中樹皮剥ぎが発生することになる。2011年7月、私は富士山北麓の標高約1,500m付近でシカがリョウブの樹皮を採食するのを見て(写真6)、驚いた。
写真6.夏季もリョウブの樹皮を剥ぐシカ
5. シカにとって樹皮は栄養があるか
一般的な印象として、堅く、粗く、食べにくい樹皮は本当にシカにとって必要な栄養分を含んでいるのかと疑問を持った。この疑問を解くために私はシカの胃内容物(シカが実際に採食した食物)と4種類の樹皮の栄養成分を分析してみた。その結果を表1に示した。
シカの食物である植物の成分は主に炭水化物の繊維であり、その他の成分は少ないながら粗タンパク、デンプン、脂質、ミネラルである。繊維はセルロース、ヘミセルロース、リグニンに分けられ、リグニンはシカが消化できない部分である。進化と食物に適応しながらシカの消化器官は特化し、他の動物が利用しにくい植物を効率よく消化できるようになっている。消化器官の最も重要な特徴は胃が4つの部分で構成され、食道由来の第一胃は巨大化しており、微生物に生活空間(発酵室)を提供し、採食された植物を発酵させ、消化する。また、シカは肉食動物のように良質な肉を食べないため、胃内微生物によって植物中の蛋白質を分解し、非蛋白態窒素化合物から微生物体の蛋白質を合成させる。このように増殖された大量微生物はアミノ酸まで分解され、シカの良質な「肉」となる。そのため、シカの生命を維持するためには植物中に一定水準の粗タンパク質(一般的には8%以上)が必要となる(Robbins, 1983)。
シカの胃内容物と各種の樹皮の成分を比較すると、粗タンパクの割合は十分ではないが、内皮の方が外皮より高かった。また消化できないリグニンの割合はカラマツとアカマツの内皮が外皮より著しく低く、両種の内皮と樹齢25年のシラビソの全樹皮(内皮と外皮が分けられない)はいずれも胃内容物より低く、消化可能な成分は胃内容物より多いと考えられる。樹皮、特に内皮を食物として(リグニンの割合高い外皮は食べ残しになる。写真1のヒノキ、写真2のウラジロモモミ、写真3のヤマザクラ)採食し、食物の不足を補うことになると考えられる。しかし、他の食べ物が豊富である時期は、粗タンパクの量が低く、相対的に食べにくい樹種の樹皮を選択的に採食することは考えにくい。
6. 樹皮剥ぎはシカの「食文化」になっている
各地域でのシカによる樹皮剥ぎ開始と拡大のプロセスを見ると、物理的な特性などによって食べ始める順番は異なり、一旦食べ始めると同じ木の樹皮剥ぎは一気に発生するのが共通の特徴となっている。例えば兵庫県では1990年代ヒノキとスギの樹皮剥ぎ被害が深刻であったが、富士山麓では2005年前後に一気にヒノキの樹皮剥ぎが流行した。富士北麓には90年代後期からシラビソを中心に樹皮剥ぎ被害が深刻になったが、同時期、同じ山梨県の八ヶ岳地域ではカラマツの被害が大量発生した。上記のように地域によって樹皮剥ぎの初めの種類と被害拡大の変化が異なる。一旦樹皮剥ぎが始まり、食糧として認識されると一年中続けて採食する可能性があると考えられる。シカは群れで生活しているので、群れ中の1頭のシカがある種の樹皮を採食すると群れの仲間は真似て採食する。このため、同じ樹種の樹皮剥ぎは一気に広がる。相互学習になるので、もはや樹皮剥ぎはシカの「食文化」でもあると考えられる。ただ上記の地域ごとの異なる特徴によって樹皮剥ぎの「食文化」に地域差があると考えられる。
参考文献:
Jiang, Z., H. Ueda, M. Kitahara, H. Imaki. 2005. Bark stripping by sika deer on veitch fir related to stand age, bark nutrition, and season in northern Mount Fuji district, central Japan. Journal of Forest Research. 10: 359-365.
McCullough, D. R., S. Takatsuki, K. Koichi. 2009. Sika Deer―Biology and Management of Native and Introduced Populations. Springer Japan. Pp1-666. ISBN-10: 4431094288, ISBN-13: 978-4431094289
大泰司紀之.1986.ニホンジカにおける分類・分布・地理的変異の概要.哺乳類科学 53:13-17.
Takahashi, H. and Kaji, K. 2001. Fallen leaves and unpalatable plants as alternative foods for sika deer under food limitation. Ecological Research 16:257-262.
Takatsuki, S. 1983. The importance of Sasa nipponica as a forage for Sika deer (Cervus nippon) in Omote-Nikko. Japanese Journal of Ecology 33:17-25.
高槻成紀.1991.草食獣の採食生態-シカを中心に.Pp117-144.朝日稔・川道武男編、「現代の哺乳類学」.朝倉書店.
高槻成紀.2006.シカの生態誌.東京大学出版会. Pp1-480.
Robbins, C. T. 1983. Wildlife Feeding and Nutrition: 2nd edition, Academic Press, Inc. A Division of Harcourt Brace & Company, San Diego, New York, Boston, London, Sydney Tokyo and Toronto. Pp1-352.
Takatsuki, S. and Ikeda, S. 1993. Botanical and chemical composition of rumen contents of Sika deer on Mt.Goyo, northern Japan. Ecological Research 8:57-64.
Yokoyama, M., Kaji, K. and Suzuki, M. 2000. Food habits of sika deer and nutritional value of sika deer in eastern Hokkaido, Japan. Ecological Research 15:345-355.
No.147 日本百名山と私と… | 一覧に戻る | No.146 |