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No154 故郷から知床に思いを馳せて ~FIELD NOTEでWMO人生を振り返る~

2022年04月発行

故郷から知床に思いを馳せて

~FIELD NOTEでWMO人生を振り返る~

 

岸本 真弓(WMO)

 

このタイトルで私の文章が始まることに「!」とされた方は、かなりの前からのWMOclub員の方ですね。ありがとうございます。1989年10月発行のNo.24に私が書いたのが「知床から故郷に思いを馳せて」であり、これが私の初投稿でした。ちょうど130号分の時代を経たのがこの154号になります。

私は今年の1月に還暦を迎え、WMO役員規定に従って、4月末で定年退職します。そして5月以降は働き方を変えてWMOの仕事に従事する予定です。この節目の2022年に知床に思いを馳せるシンポジウムがありました。そのお話を皮切りに、FIELD NOTEに投稿した拙著をたどって、私の30余年を振り返りたいと思います。

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2022年2月12日『野生の営みのダイナミクスに迫る~世界遺産シリエトクのヒグマとエゾシカ~』シンポジウムがオンラインで開催された。独立行政法人環境再生保全機構 環境研究総合推進費【4-1905】「遺産価値向上に向けた知床半島における大型哺乳類の保全管理手法の開発」の一環として実施されたものである。

内容は次のようなものであった。

○知床の野生をめぐる歩み(山中 正実/公益財団法人知床財団 特別研究員)
○はたしてヒグマは何頭いるのか?〜数から読み解くヒグマの生態〜(下鶴 倫人/北海道大学 准教授)
○海へ山へと大忙し!知床のヒグマの食物事情
(白根 ゆり/地方独立行政法人北海道立総合研究機構 エネルギー・環境・地質研究所 研究職員)
○ヒグマとの攻防戦?知床のエゾシカの過去と現在(石名坂 豪/公益財団法人知床財団 部長)
○エゾシカの生存戦略〜なぜ高密度が維持される?(宇野 裕之/東京農工大学 教授)

 

1989年、国設鳥獣保護区であった知床に鳥獣保護センターを設置・開所するということで、私はその準備手伝いとして知床に行った。当時その業務をしていたのは、斜里町から知床自然センターに研究員として派遣されていた山中正実さんで、私はそこで事務手続きや、研究のお手伝い(にはならず、もっぱら私のフィールドワーク研修)をしたのである。その時から山中さんは、その鳥獣保護センターを、当時メジャーであった傷病鳥獣の救護を担う場所ではなく、研究拠点・普及啓発活動の場とするということを明確に意識され、内部の設備や展示内容をつくりあげられた。

その山中さんが講演された「知床の野生をめぐる歩み」では、1970年代にクマ調査が北大クマ研の人たちによって開始されたこと、1979年に当時北大歯学部助教授だった太泰司さんが代表となって、信じられないほどの少額の予算で大規模な「知床半島自然生態系総合調査」が実施されたことが紹介された。おそらくこの時点で、知床の自然に魅入られ、その価値を認識していた人が多数いたことがわかる。また、その後も北海道は道の「野生動物分布等実態調査」の中でたびたび知床を調査し、また一方で斜里町立知床博物館や知床自然センターが核となり、そこに通い活動する学生さんや自然ボランティアの皆さんも協力し、知床の自然はモニタリングされ、それは知床の貴重な自然の高度な管理の基礎データとなっていった。

それらの基礎情報と管理システムが評価され、知床は2005年に世界自然遺産に登録された。世界自然遺産に登録されることがゴールではない。世界自然遺産として維持していくためには、より深くその自然を理解する努力を続け、それを遺産として将来に残していく努力も継続しなければならない。その努力の過程がこのシンポジウムで紹介された。

知床は常に一点を目指して、大きく、広く、分厚く調査され、その結果が配信され、それを維持するための手法が試行錯誤され、洗練されてきていることを痛感した。そのエネルギーは魅力に応じるものなのだろう。そしてその魅力は魅せられた人同士によって相乗されて波及する。シンポジウムを聴き、私の知らない30年間で知床のマグマはさらに大きくなり、調査は種から生態系により深く広がり、管理は大きくステップアップしていたことを実感したのだ。

知床から離れたこの30年間私は何をしていたのだろうか。入社前に書いた「知床から故郷へ思いを馳せて」では、特別な自然でなくても「津々浦々に生息地を広げた私たちが自分の周りの自然を大切にする事は日本中の自然を大切にすることになる」と書いたように、身近な自然を大切するための何かをしたいという気持ちが強かったはずだが、私は何か為し得ることができただろうか。

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私がこれまで投稿してきた記事を内容で区別してその推移をまとめると図1のようになる。

1990年4月にWMOに入ってから、私は毎年タヌキの記事を書いている。90年にはWMOの事務所の玄関にタヌキが現れた事件を書き、91年には当時多くなり始めていた「アーバンタヌキ報道」に噛みついた。92年から93年にかけて、「タヌキ大明神」と崇め奉り、私とタヌキの関係を連載した。そして94年には「ぽんぽこはじまる」として、社外のタヌキ研究者の人たちに執筆をお願いし、タヌキの特集を組んだ。また1994年からは、WMOの海外研修制度を使ってフィンランドのタヌキ研究者カウハラ博士と共同研究を始め、96年までフィンランドのタヌキについて数回紹介した。95年にはアーバンタヌキや、タヌキを寄せものにされることに再び怒り、しつこく「餌付け問題」をとりあげた。96年には「大楠山タヌキガイド」を作成し、三浦半島でのタヌキ生態調査に一区切りをつけた。

タヌキのタメ糞について書いたのは96年No.51の個体数調査特集で餌マーク法について紹介したのがはじめてであった。この96年には、シカ糞塊密度調査の際にタヌキのタメ糞を記録するタヌキため糞競争を始めたことは、本誌前号でも書いた。翌年の97年には、その結果を簡単にまとめて「里山のタヌキ」として紹介した。前号にも書いたとおり、私はタヌキが里山でだけ暮らす(=人と関わりをもってのみ生きる)動物ではなく、人などいないところでも生きていく動物であることを証明したかったわけであるが、それは「アーバンタヌキ」が普通であることのように語られることへの反発であった。

その後しばらくタヌキの記事を書いておらず、2005年に国際哺乳類学会でタヌキのタメ糞調査の結果を発表したことを投稿した。その後は2011年から始めた趣味のセンサーカメラ調査に写るタヌキたちの紹介を、2011年「厠のタヌキ」、2012年「タヌキの厠」、2016年「タヌキの厠放棄」として投稿してきた。そして、前号ではタヌキため糞競争の終了を報告させていただいた。

このように私の投稿のかなりの割合をタヌキが占めている。これは私の心の中を占めるタヌキの大きさを表している。WMOで仕事を続けてきて、タヌキが本来の(お金をもらう)仕事となったのはほんとうにわずかだった。タヌキとWMOの仕事が直結したのは、小さな展示物作成や講演などを除くと、環境省の全国疥癬疫学調査と、アライグマ防除のための調査だけで、いずれもタヌキの脅威になるものであった。ただ、WMOが今のように求められる仕事で手一杯になる前の時代には助成金をとって、それを調査機材購入にあて、自主研究を進めることが可能であった。タヌキ仲間であった当時第4研究室所属の佐久間仁美さんと私で、全労済や日野自動車グリーンファンドから4年にわたり助成をうけ、上述のフィンランドでの研究には笹川海外研究助成を民間企業所属者として初めていただいた。そうやって1990年代はなんとかタヌキの調査を生み出していた。

ワイルドライフマネジメントの重要性が世に広まり、モニタリング調査が盛んに行われるようになって、いわゆる仕事に追われるようになり、なかなか時間がとれなくなり、ささやかなお金を得るくらいではタヌキの調査をすることが困難になってきた。そのために生み出したのがタヌキのタメ糞競争であり、その後の趣味のセンサーカメラ調査である。そんな私のタヌキ歴はFIELD NOTEに克明に記されている。

 

WMOというフィールドワーカーのあつまる事務所に就職はしたが、私は就職するまでフィールドワークをしたことがほとんどなかった。獣医師の免許をいただくまでの6年間は大阪の大学におり、どうやったら野生動物に関われるのかわからず悶々とした時を過ごしていた。その後日本で初めて獣医学科(獣医学部)にできた野生動物学教室の博士課程に入ったが、獣医学の学位をとるためにフィールドワークではなく、飼育されているサルを対象とした研究を行った。ただ、私の実力不足と諸々の事情により、規定年数で学位を取得出来なかった。そのため1989年は研究生として研究を続けていた。この時、最初に書いた、知床に行く機会を得たのである。そこで、初めてコンパスを使い、電波発信機を装着したヒグマの位置を3方向から受信してロケーションするという方法を前述の知床の山中さんに習ったのである。山中さんは私のフィールドワーク基礎の基礎の恩師である。

入社しても、私はフィールドワークがまともにはできなかった。私が純粋なフィールドワークについて本誌に書いたのは入社後5年が経過した1996年1月発行のNo.49である。そこまで私は書けなかったのだ。No.49の記事は「フンコレクター」で、糞から食べ物がわかること、そしてその糞を見て、動物たちの行動を想像する面白さを書いている。そういう境地に到達したのはもう少し前であったのだろうとは思うが、文章にするほど自信はなかったのだろうな、と思う。

それまでに書いていた多くの記事は、タヌキを除くと、動物の生理学的側面についてのものが多い。これは、私が獣医としてそういう分野を学んでいたからであり、そしてそれもとてもおもしろいと感じていたからである。私は野生動物の保護がしたくて獣医学科に入学したが、生物の神秘というか、生命のなりたちの精巧さ、その奇跡、に完全に魅入られていた。そのあたりのお話は1995年No.48の「けものけのなか事始め」に書いた。この「けものけのなか」は途中から私が書く動物の生理学的お話につけたシリーズ名である。91年に頭骨のことを、93年に血液のことを、95年に換毛のこと、95年に目のことを書き、95年には解剖の面白さを書いた。96年には山で拾った肩甲骨がアナグマのものだと、つきとめた話を書いた。98年には角のこと、98年にはツツガムシのことを、99年には体内時計のことを書いている。

一方、私が主たる仕事として取り組んでいたシカのことを初めて書いたのはフィールドワークについて書いた年と同じく1996年だが、号は4号あとのNo.53である。入社一年目からシカに取り組んでいたが、これもまたずいぶん書くまでに時間がかかった。シカ問題は複雑で大きく、マネジメントの正解は見えず、フィールドワークよりも難敵でハードルが高かった。自分なりに整理し勇気を持って書いたが、読者の方から批判をいただき、ずいぶんへこんだのを覚えている。実は、私がシカのマネジメントに限定して書いたのはあとにもさきにもこのひとつだけだ。

ワイルドライフマネジメントについては、この96年のシカの個体数調整の話のあと、2001年に、「地元に根ざしている」とは言いがたいWMO=自分の役割は何かということを迷いながら書いた。ちょうど関西に来て、サル調査を開始し始めた頃であり、地元説明会で、地元住民の方から罵声をたくさん受け、自分の力不足を歯がゆく思っていた頃だった。この記事を書いたあと、後日談、当時発行された「アフリカで象と暮らす」(中村千秋)の紹介、中村さんからのお手紙と1年間続いた記事からは、私の中でWMOの立ち位置が整理されていく様子が見える。

 

2003年頃から私の投稿数は減少している。整理して自分でも驚いたのであるが、2018年から2020年までの3年間はなんと一報も書いていない。何していたのかと思い出そうとするのだがわからない。ただ、ひとつ言えるのは、文章を書いていなかったわけではないということだ。WMOではホームページにフォトブログ(調査雑記)というコーナーを持っている。そこへの投稿はしていた(図2)。フォトブログは投稿したらすぐ掲載される訳ではないので、掲載年が執筆年ではないが、2018年は16記事がアップされている。ただ、最近はフォトブログの掲載数も減少している。この原因として、他の社員の投稿が多く、私の記事が掲載待ち状態にあることもあるだろうが、残念ながら、体力の低下によって野外調査での余裕が少々失われ筆スピードが落ちていることも否めない。

フォトブログとFIELD NOTEの最も大きな違いは文章量だ。フォトブログはブログなので、文章はかなり短い。野外やどこかで見たものの写真を撮影し、それを見た時に感じたこと、考えたことを短く書く。短く書くのは簡単な場合もあれば、難しいこともある。だが、やっぱりFIELD NOTEを書くよりも気軽に書ける。「こんなおもしろいもの見つけたよ」でOKだからだ。FIELD NOTEは、複数のおもしろいものから、何かもう少し大きなことを言いたくなったときに書く。たとえば、フォトブログNo.277「しし神さまの檜皮敷」とフォトブログNo.285「しし神様の最期の眠り」に、あと少し情報を加えてFIELD NOTE No.135「謎の多いイノシシの山での仕事」を書いたように。ブログは短いので気楽に書けるのが長所で、FIELD NOTEは自分の考えをまとめてしっかり書けるところが良い。これからもそれぞれの特性にあわせた文章を書くことになるのだろう。

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WMOに入る前の私は、頭でっかちな自然好き人間であったと思う。それがWMOに入って、ほんとうの自然を見たり、触れたり、感じる機会を得た。それは感動の連続だった。そのことを伝えたくってしょうがなかった。その思いをぶつけていたのがFIELD NOTEだった。言葉でも文章でも自然の美しさ、面白さ、奥深さ、神秘・・・ 気づいたこと、あるいは考えたことを語りたい。まずは嬉しくて単純に語りたいと思い、そしてそれを共感してくれる人がいたらなお嬉しいなと思い、文章にしてきた。

もうひとつ、私は日本語(日本人なので日本語しかしらないが、おそらく要は文章なのだろう)が好きだ。流れるように頭に入り、そしてそのことばが織りなす情景、気持ちの機微を思い浮かべられるような“ことば”は美しい。なので、当然読書が好き。私の趣味は読書。なんの変哲もない「例」に書かれるような趣味。だけどもきっとそれが今の私の文章を書く意欲とハードルの低さを作ってくれたと思う。三度の飯より好きとまではいかないが、子供の頃から、寝食を忘れるほど読んだ。テレビよりも本が好きだった。知らない世界を見せてくれる本というものが好きであるのに理由はないが、もうひとつおそらく美しい日本語が好きでもあったのだろうなと最近思っている。なぜか、それは唱歌も好きだからだ。母がよく歌っていたからかもしれないが、子供の頃から懐古主義の私の琴線にふれる日本の里山、原風景を唄ったものが多いというのもあるだろう。唱歌には、簡潔で、それでいて情景が目の前に広がるような素晴らしい詩が多く、それが子供にも覚えやすいメロディにのせられている。私がもっともよく歌うのは「冬の朝」だ。

少し古い文体だが、だからこそ無用な接続詞やくどい説明がない。なのにその風景が目の前に現れる。こういう文章で私の見る自然、感じる自然を書き留めたいが、現在私にその技術はない。残念だ。ただ、これから少し時間に余裕ができると思われるので、ゆっくりと研鑽をつんでいきたいと思う。

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私の書きたい、話したいという欲望をFIELD NOTEは受け止め、昇華させてくれました。これはひとえにWMOclubの皆さんがWMOを応援してくださり、FIELD NOTE を購読してくださっているおかげです。本当にありがとうございます。人生の半分以上の間、FIELD NOTEという紙面を提供していただけたことに心より感謝申し上げます。

そして、岸本真弓60歳、感性も鈍くなり、言葉もでにくくなってきましたが、これからも書いていきたいと思いますので、どうかもう少しだけおつきあいくださいますようお願いいたします。

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